Masuk「え……嘘? なんでこんな熱が……」
昨日は伊藤《いとう》さんや、梨ヶ瀬《なしがせ》さんの事で色々あったからだろうか? 身体が怠くて昼過ぎに起きると、三十八度を超える熱が出ていた。 一人暮らしで頼る人もいない状況で病気になるの程辛いことはない、私は悪化しないうちにと解熱剤と風邪薬を飲んでベッドへと戻る。 何か食べなくては良くないとは思いつつも、食欲がわかないのでそのままにしてしまった。「……ああ、伊藤さんからメッセージが来てる」 その内容は今度いつ会えるか、というものだったが今の状態では何とも言えない。 体調が悪いという返事を送ってそのまま布団に潜り込めば、すぐに睡魔が襲ってきてそのまま眠ってしまった。 ブーブーブーと、どこからか聞こえてくる。それに気付いていても、身体がとても重くて動けそうにない。やっとのことで瞼を開ければ、いつの間に夜になったのか部屋の中は真っ暗だった。 その辺に置いたはずだと寝たままスマホを探して手に取り時間を確認すると、深夜の二時になっていた。 起きた方が良いのか迷ったが、やはりまだ身体がいう事を聞かない。そのまま、もう一度眠りにつこうとスマホを手放そうとした。 それでもしつこくブーブーブーと鳴りだすから、諦めて画面を見ると……「……え? なんで梨ヶ瀬さん?」 こんな夜中に彼が電話をしてきたことはない。もしかして、何か急ぎの用でもあるのだろうか? そう思って無理して起き上がり、スマホの通話ボタンを押した。「……もしもし、何かありました?」 やはり風邪をひいてしまったのだろう。出てきた声はかなりガラガラで、すぐに体調が悪いことがバレてしまう気がした。 解熱剤を飲んだはずなのにもう効果が切れたのか、はあはあと吐く息も熱い。『横井《よこい》さん、その声……! 体調が悪いって本当だったんだ、なんで俺には言ってくれなかったの?』 梨ヶ瀬さんの言っていることの意味が分からない。どうして私の体調が悪いことを知っているのかも、梨ヶ瀬さんに連絡しなかったことを責められる理由も。「じゃあ私は帰りますね、これコーヒーの代金です」 そう言って財布からお札を取り出そうとするが、すぐに伊藤《いとう》さんに止められる。その必要は無いと言うように。彼はその伝票を持つと、さっさとレジで会計を済ませてしまった。 そして……「近くまで送っていく、途中で転ばれたりしたら困るからな」「……まあ、伊藤さんがそうしたいというのなら止めませんけれど?」 間に人が一人入るくらいの空間を開けて、それが私と伊藤さんのちょうど良い距離。憎まれ口を叩きながら、それも悪くないと。 二人で駅から出ようとしたところで、懐かしいシトラス系の香水の匂いがして何となく振り向いた。「あれ……もしかして、麗奈《れな》?」 どうしてこんな時に限って、この人は私を見つけて声をかけてくるのだろう? お互いこの街で暮らしていても、今まですれ違った時は他人の顔をしていたはずなのに。 この甘い香水の匂いも、少し掠れたような低い声もすごく好きだった……今でもその思い出に、胸を締め付けられるくらい。「……麗奈、知り合いか?」 隣にいた伊藤さんがまるで彼氏のような態度で、私に声をかけてきた相手をじっと見つめている。 先程まで空いていた、一人分くらいの距離はいつの間にかなくなっていた。 おそらく一瞬で伊藤さんが私の表情が固くなった事に気付き、こうして守ろうとしてくれているのだろう。「昔、知り合いだった。ただそれだけの人」「ふうん? 相手はそうじゃないみたいだけど」 私の言葉に、伊藤さんがわざとらしい返事をする。 何事もなかったように横をすり抜けようとする私たちの行く手を阻むように、その男が立ち塞がったからだ。 面倒なことになりそうで頭がいたくなってくるのに、隣の伊藤さんは少し楽しそうな顔をしているようにも見える。 ……そうだ。この人はとても厄介な性格の持ち主だった事を、すっかり忘れていたわ。「……麗奈、話がしたい。少し二人きりになれないか?」「無理よ。何か話をしたいのなら、この場でしてもらえないかしら」
「ああ、馬鹿馬鹿しい! そんな理由だと知ったら、梨ヶ瀬《なしがせ》さんも呆れて麗奈《れな》から離れていくかもな。だいたいあんな出来そうな男がそんな風になるなら、逆に面白そうじゃないか?」 分かってはいたが……他人事だと思って、伊藤《いとう》さんは言いたい放題だ。 自分は元カノ相手に、散々グチグチしてたくせに。そんな伊藤さんにちょっとイラつきながらも、それを我慢して昨日の梨ヶ瀬さんとのやり取りを思い出す。 私の一番の心配を、梨ヶ瀬さんはこの人と同じように笑い飛ばして。そんなことで気持ちを押し殺すなんて、自分には理解出来ないとも話した。 それは目の前にいる伊藤さんも一緒なようで、むしろ梨ヶ瀬さんがそうなるのを想像して楽しんでまでいる。「みんなそう言いますけどね、私だって真剣に悩んでて……」「そもそも麗奈は、悩む所が少しズレているんじゃないのか? ダメンズにしてしまうから付き合いたくない、じゃなくて……どうすればダメンズにしないように出来るか。どうせ悩むのならば、その方がずっと前向きだろ?」 伊藤さんの言葉に私の方がポカンとしてしまう。 ……だってそんな簡単な事を、今まで私はずっと思いつかなかったのだから。 自分か付き合えば必ず相手をダメにしてきた、それはどうあっても変えられないんだと思い込んでいて。「なんでそれを教えてくれるのが、伊藤さんなのかなあ……?」「はあ? ここは素直に礼をいう所だろう、喧嘩売ってるんなら買ってやるぞ?」 私と伊藤さんの関係は、とても不思議なものだと思う。お互いに恋愛感情も無ければ友達なわけでもない、だからと言ってただの知人とも言えない微妙な距離感。 なのに、それが意外と悪くないと思うから不思議で。「なんだかんだでお節介なんですよね、伊藤さんは。自分の事も、それくらい積極的になればいいのに」「……いいんだよ、俺は。しばらくは自由を楽しむって決めてるんだから」 そう言って笑うくせに、その表情はやはり寂し気で。 「……ホント、意気地なし」 人には頑張れなんて簡単に言うくせに、自分は傍観者になる事に決めている。今の伊藤さんに、ちょっとだけもどかしさを感じていた。 そんな私の気持ちを分かっているのか、彼は横に置いていた紙袋を私に差し出してみせる。「それはお互い様だ。この話題はもういいだろ、そろそろ出ようぜ」 こ
「麗奈《れな》はさ、何で自分の気持ちに素直にならないんだ? 好きなんだろ、梨ヶ瀬《なしがせ》さんの事が」 第三者だから冷静に観察出来るのか、伊藤《いとう》さんには私の気持ちは完全にバレている。梨ヶ瀬さんに隠せているかと言えばそうではないけれど、ハッキリと突っ込んでくるところが伊藤さんらしいと思った。 伊藤さんには関係ない。そう一言いえば済む事なのに、それが出来ないのは彼が意外と真剣に心配してくれてるからかもしれない。「……だって、釣り合わないじゃないですか。私と梨ヶ瀬さんでは」 これは第一の言い訳。仕事も出来て人当たりも良い、その上あのルックスなのだ。私のような平凡で気が強いだけの女が、そんな梨ヶ瀬さんに似合うとは思えない。「へえ? 恋愛に必要なのは気持ちであって、容姿は二の次だと俺は思うけど?」 伊藤さんの言いたいことは分かる。梨ヶ瀬さんだって私の容姿だけを見ているんじゃないって事くらい、ちゃんと理解してる。 それでも何か理由を付けないと、自分を正当化できない気がしてて……「梨ヶ瀬さんは本社から来てるの、いつ御堂《みどう》さんみたいにそっちに戻るか分からないわ」「麗奈が梨ヶ瀬さんを追いかければいい、紗綾《さや》がそうしたように」 そんな簡単に言わないで欲しい。紗綾はその能力を買われ本社へと移動することになったけれど、私に同じことが出来るとは思えない。 ……それに、そこまで梨ヶ瀬さんの事を好きだという自信もない。「そんな簡単に言わないでくださいよ、何でも出来る紗綾と同じように考えないで」「紗綾だって悩んで選んだんだって、本当はアンタだって分かってるくせに。意外と言い訳が多いんだな、ウジウジ悩んでばかりに聞こえる」 なんでそう分かったように言うの、伊藤さんのくせに。 そう……サバサバした性格だとみられることが多い私だけど、本当は結構考え込んでしまうタイプ。ああでもない、こうでもないといつまでも答えを出せないでいる。 そんな格好悪い自分をズバリと当てられ、何となく恥ずかしい気持ちになってしまう。「だ
「いつも紗綾《さや》がどこまで許してくれるのか、どうしたら嫉妬していると正直に言ってくれるのか。そんな事ばかりを考えて、何度も彼女を傷付けていた。俺が紗綾に対して、素直になることが出来なかったばかりに」「……だから真っ直ぐに紗綾を愛している御堂《みどう》さんに、彼女を任せると?」 伊藤《いとう》さんは、そんな私の問いかけに返事はしなかった。 その無言の肯定に、私の方が胸が痛くて何とも言えない気持ちになる。 紗綾との一件の後に海外へと行ってしまった伊藤さんだが、そうしなければ彼女に対する想いを抑えることが出来なかったのかもしれない。 それほどまでに、彼も本当は紗綾を愛していたのだと。 「……私は信じないですよ、そんな愛。本当に好きなら諦めたりしないですもん、自分だったら」 これは嘘。私は自分に自信が無いから、すぐに諦めてしまう。梨ヶ瀬さんの事だって、ずっと誤魔化して彼が飽きるまでそうしておくつもりだった。 それでも伊藤さんが気持ちを押し殺している様子は、見ていて堪らない気持ちにさせられるのだ。「たとえ麗奈《れな》がそうだとしても、俺はそうじゃないんだよ。紗綾を幸せに出来るのは、あの男しかいないと分かっているから」 伊藤さんの視線が、チラリとテーブルの端に置かれた紙袋へと移る。彼の中で紗綾と御堂さんを祝福する、それはもう決定している事だと気付かされた。 今でも愛しているから、そんな紗綾の幸せを一番に考えている。そう自分を納得させるために、伊藤さんは日本を離れていたのかもしれない。「……馬鹿みたいですね、そんな強がり言って。自分が一番幸せにする、くらい言えないんですか?」「それを出来なかったんだからな、俺は。たった一度きりのチャンスを、自分のプライドで駄目にしたんだ」 それほどまでに伊藤さんの浮気は、紗綾を傷付けその心を追い詰めた。その結果、どれだけ伊藤さんと紗綾がどれほど苦しむことになったのかも聞いている。 私には、それ以上はもう何も言えなくて……「だからかな? 麗奈と梨ヶ瀬《なしがせ》さんを見ていると、上手くいって欲しいなと思ったりして」「……狡いですよ、そういう事を言うのは」 お互いの気持ちは分かっているのに、それ以上の関係に進もうとしない。そんな私達は伊藤さんから見ればもどかしいのかもしれない。 だから今回も私に確認もせず、
喉を通りかけていた水が思いきり器官に入り込んだ、むせて咳が止まらなくてとても苦しい。 このタイミングを狙っていたのだと気付いた時には手遅れで、伊藤《いとう》さんは楽しそうに笑っている。 やっぱりこの人って最低だ!「この、よくも……ごほ、んん、げほっ! わざとですよね、今のは」「面白いくらいに動揺したな、進展があったみたいで何よりだ」 なにが何よりなのよ! 伊藤さんの所為で結局私と梨ヶ瀬《なしがせ》さんは……そう怒りを感じながらも、あの出来事を思い出して顔が段々熱くなる。 そんな私の変化に、伊藤さんは興味津々という表情でこっちを見てくるから堪らない。 「やっぱり梨ヶ瀬さんに余計な事を話したのは、伊藤《いとう》さんだったんですね? そのせいで私がどんな目にあったと……!」 さすがにキスまでで止まってくれたが、あれが病気でない時だったら最後まで押し切られていたかもしれない。 そう思うと、今更ながらにとんでもない状況だったのだと思い知らされた。 あの時、梨ヶ瀬さんは完全に男の顔をしていた、その迫力と色気に私はほとんど抵抗も出来なかったのだから。「へえ、もしかして最後までいったとか?」「ば、馬鹿なこと言わないで! そんな訳ないでしょ、伊藤さん全然悪かったと思ってないですよね?」 他人事だと思って茶化してくる伊藤さんを殴りたい気持ちを抑えて、思いきり睨んでみせる。この人の性格の悪さは分かっていたつもりだけど、やはり腹は立つ。「……どうして、あんな余計な事をしたんです? 伊藤さんには、私と梨ヶ瀬さんの事は関係ないでしょう」「んー、なんでだろうな。お互い意識してんのに変に距離を取ろうとしてんのが、見ててもどかしかったからじゃないか?」 伊藤さんの言っている事は当たっている。それでも私には、簡単に梨ヶ瀬さんを受け入れられない理由もあった。それも……結局は梨ヶ瀬さんに、簡単に吹き飛ばされてしまったのだけど。「見ていてもどかしいのは、伊藤さんの恋なんじゃないですか? 紗綾《さや》の事をどれだけ想っても、彼女はもう伊藤さんの所には戻らないのに……」 傷付けたいわけじゃないのに、私の方が伊藤さんにお節介な事を言ってしまう。笑っていても伊藤さんは、どこか寂しげな眼をしている事があったから。「……紗綾と別れて、一時期は凄く後悔したんだ。だけど今は
「……ええ、もう大丈夫です。じゃあ、今日の七時に駅前で」 用件のみの電話を終えると、私はそのままシャワーを浴びにバスルームへと向かう。 さっきの電話の相手は、あの伊藤《いとう》さんだ。 熱は大丈夫なのか? とわざわざ電話をくれたのだけど、やはり彼はよく分からない。 ただ梨ヶ瀬《なしがせ》さんの事について、余計な事をしてくれるな! と注意しようと思ったが、それは今日の夜に直接言う事にする。 熱めのシャワーを浴びて汗を流せばすっきりとして、ぼんやりしていた頭もだいぶハッキリとしてくる。 昨日梨ヶ瀬さんは月曜まで大事を取って休むようにと言ってくれた。そのおかげで熱も下がり体調もずいぶん楽になっている、少しくらい伊藤さんと会う時間を作っても問題なさそう。 遅い昼食を済ませのんびりした後、準備を済ませて私は伊藤さんとの待ち合わせ場所へと向かった。 「……何でもういるんですか、まだ待ち合わせ三十分前ですよ?」 駅の中にあるコーヒーショップに伊藤さんの姿を見つけて、私も店の中へと入る。声をかければ、伊藤さんの方が少し驚いているようだった。 「麗奈《れな》のほうこそ、随分早く来たんだな? 時間近くになったら、ここを出ようと思ってたのに」 テーブルの上に置いてあるシンプルな紙袋、中に入っているのがきっと紗綾《さや》に渡したいものなのだろう。もしかしたら伊藤さんは、緊張で落ち着かなかったのかもしれない。 そんな風に元カノの紗綾をいまだに想う伊藤さんの気持ちを考えると、少し複雑な気分になる。 「喫茶店の珈琲が飲みたい気分だったんですよ、もうここで話を済ませちゃっていいですよね?」 そう言ってチラリと紙袋に視線をやると、伊藤さんの返事も待たずに彼の正面の席に座る。用件は最初から分かっていたのだし、すぐに終わるにしても珈琲一杯くらいは付き合ってもらってもいいはず。 ウエイターを呼んで注文を済ませると、ゆっくりと伊藤さんの方へと視線を戻した。 「……それで、あの日はどうだった?」 「えっと……何がです?」 いきなり意味の分からない質問をされて、私は首を傾げて見せる。どれが『それで』なのかも、何が『どうだった?』のかも私には全く分からない。 もしかしてこの人は、寝ぼけているのかな? なんて考えつつグラスの水を一口含む、そんな私を見て伊藤さんがニヤリと笑う。